2011年02月15日
もりやまクイズ 008
なんちゃって守山検定!8回目
不定期ですが 守山について 少しでも興味を持ってもらえたら幸いです (あくまで、なんちゃって・・・ですが)
Q 008 中山道守山宿に制札が出されたのは 次のどの年号か?
A 慶長
B 寛永
C 寛文
D 延宝
答え
↓
不定期ですが 守山について 少しでも興味を持ってもらえたら幸いです (あくまで、なんちゃって・・・ですが)
Q 008 中山道守山宿に制札が出されたのは 次のどの年号か?
A 慶長
B 寛永
C 寛文
D 延宝
答え
↓
守山市PRキャラクター もーりー (ほたるの妖精)
正解は
B 寛永 (1624年から1643年まで 第三代将軍徳川家光のころ)
(以下、「中山道守山宿の歴史とガイド」からの引用)
「中山道」とは 江戸時代の五街道の一つで 古代の東山道をほぼ踏襲・修復したものである。
慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は 天下統一を果たした。
天下統一とは 一つには全国の交通路を掌握することでもあった。
慶長6年(1601年) 全国統治上の最重要幹線とも言うべき東海道に伝馬(てんま)制度を定め
慶長7年(1602年) 中山道にも伝馬制度を定めた。
中山道は 日本橋を起点として 武蔵(東京・埼玉) 上野(こうづけ:群馬)を経て 信濃(長野)に入り
木曽路から美濃(岐阜)へ抜け さらに近江(滋賀)の草津で東海道と合流し
逢坂山を越えて 京都三条に至る全長135里22町(約534キロ)の行程である。
鎌倉・室町時代を通じて 守山は有名人の往来も多かったが
中世の領国経済では急な発展はみられなかった。
戦国の世になると 東国から都への近道として 守山からの志那街道や 草津の東海道への利用がされてくる。
この両道の分岐点に当たる守山は 軍事上からも重要であった。
信長も秀吉も戦乱から守山を守った。
江戸時代に入ると 徳川幕府は 五街道を整備し (前述)
寛永12年(1635年) 参勤交代制度を定め 全国的交通体系を整えた。
庶民の往来も多くなり 中山道の守山は
寛永19年(1642年) 徳川幕府より 正式に中山道の宿場として制札(せいさつ)が出され 認可された。
この頃の 一般庶民の旅の行程は 一日約八里(約32キロ)だった。
京~守山間は 八里六町(約32.6キロ)であり
京から中山道を通って江戸へ行く(東下り:あずまくだり)人たちは 1泊目に守山で泊まった。
このことから 「京だち守山泊まり」として 宿場は繁栄した。
【その他の答え】
A 慶長(1596年から1615年まで 第一代将軍徳川家康 第二代将軍徳川秀忠のころ)
C 寛文(1661年から1672年まで 第四代将軍徳川家綱のころ)
D 延宝(1673年から1681年まで 第四代将軍徳川家綱 第五代将軍徳川綱吉のころ)
Posted by タキシス at 05:55│Comments(0)
│なんちゃって守山検定